2012.10.25(木)

秩父良いとこ一度はおいで 中蒔田 ジオパーク勉強会 その2

 
ジオパーク勉強会の第二弾です。
 
昨日の説明は初めての人のは分かり難いのではないかとのご指摘を受けました。
書いている本人(筆者)が良く理解しているわけではないので「分かり難い」というご指摘は
「その通り」と開き直るしかないというのが実態です。
 
この勉強会で講師の方が説明される「根底」に流れているのは「古代からの自然の変化が
それぞれの地域で後に住み始めた人間の生活に大きく影響している」ということだと思います。
例えば、「荒川」が流れを変え、土地を削ってだんだんと流れが低いところになり、「台地」を
作り、その台地でも「水をどれだけ確保」し易いかによって「農業の形態」が変わったという
いうことだ思います。
 
農業の形態では大きく分けて「稲作」と「畑作」あり、秩父の「畑作」は「桑畑」が中心でした。
「稲作」で作られる「米」は江戸時代から経済の中心で、明治以降も政府による保護も厚かった
ものです。
一方の「桑畑」は養蚕業のベースで、蚕(かいこ)を飼い、絹を作るという「現金」を生む産業
です。秩父地域はこの「養蚕(ようさん)」「絹生産」「織物」で栄えた地域です。
 
筆者は単純に「秩父は養蚕で栄えた」という理解していたのですが、「絹」は「相場もの」だった
のです。相場が高い時には「大儲け」をするが、相場が下がるとコストも出ないという産業です。
 
この「桑畑」「養蚕」に頼っていた地域は相場によって困窮することがあったのです。
この困窮が「秩父困民党」になり「秩父事件」になっていったのです。
 
秩父事件のことについては次のサイトを見てください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
このサイトにも「生糸」の相場が大暴落して、農家の生活が厳しくなったと書いてあります。
秩父地域は「養蚕」へのウエイトが高かったと書いてありますね。
 
ジオパークの勉強会では「秩父地域は養蚕の比率が高かった」という一般論とは別に、
「川の位置があまり深くなく、農業用水を取り入れ易かった」地域では「稲作」と「養蚕」が
両立していたという説明がありました。
この地域が「大田地域」と「蒔田地域」だったのです。
 
秩父事件が起きた「明治17年」に大田地域から「医者」になって、自費でドイツに留学した
人もいたというほど「裕福」だったそうです。
これらの地域は「稲作」と「養蚕」がバランスよく行われていたということです。
「嫁に行くなら、大田か蒔田」という言葉もあったということです。面白い話です。
 
自然環境の違いは、秩父では「荒川」の流れにより決まり、農業の種類に影響したのです。
その後、「平らで広い」畑の地域は「秩父セメント」「キャノン電子」などの工業用地になり
「稲作」地域は圃場整備は行われましたが、引き続き稲作をしています。
現在の農業地域と工業地域の違いにもつながってくるのです。